インタビュー

――尹さんの出身はどこですか?

横浜。

――どうして担々麺屋をはじめたんですか?ホテルの料理長だったんでしょう、わざわざやらなくてもという感じがするんですけど。

うん、確かに周りからは「どうしてお前が…」って、最初いろいろ言われたけどね。ホテルの頃はいい食材や高価で珍しい調味料を使ってたし、部下も15人もいたからね、当然、手間暇のうんとかかる凝った料理や旨いモノを作れて腕も磨けたんだけど、お客さまの顔が見えなかったんだよね。「旨い」といって食べてくれる姿を見るのが料理人の愉しみだとおもうんだよね。

――それは僕も分かります。同じ想いで僕もデザイン・プロダクション辞めて、街の印刷ショップで働いたりしていましたから。ただお客さまの求める味のレベルが低くならないですか?値段もそうですけど。

独立して最初の頃は、お客少なかったねえ。めちゃくちゃ暇(笑)。ただ、それがよかったんだね、じっくり担々麺を研究する時間がもてた。
ちょうどその少し前に、関東の方で担々麺のブームが来てたし、横浜でやるか大阪にそのまま残ってするか、すごく迷ったんだけど、自分の力を試したいという思いもあって、よく知っている関東をやめて敢えて大阪に残ることにしたの。だから最初はホテルの名前も、陳さんの名前も隠して…。大阪ではその頃、誰も知らなかった担々麺の専門店をはじめた。たぶん関西では専門店は最初じゃないかな。
それと、いろいろ美味しくない担々麺もあったから、師である陳建民さんの味を発展させる形でちゃんと伝えていきたいとも思って、ホテルにいたときからやるなら担々麺て決めてたんだよね。
でもありがたいことに、少しずつ味が分かってくれる常連さんがついてくださって、雑誌とかテレビにも紹介してもらったんだよね。

――最初に、建民さんところで修行したんですよね。建民さんの思い出ってあります?

神様と呼ばれる人だったからね、16のガキには、雲の上の人だったよ。建民さんのお店もはよく繁盛してて忙しかったな。外務省のお偉いさんに気に入っていただいたりして、官邸に出張料理に出かけたりするようになって、それにくっついていったりしてたな。
中国と国交が回復して登小平(トウショウヘイ)さんが日本に来られたときに京都の都ホテルでレセプションがあって、登さんが四川省出身だというので京都に行って料理を作ったら、それが新聞に大きくでてそれから有名になったんだよね。建民さんの凄いところは、全ての技術を弟子達に惜しみなく見せた。そしてその弟子達が日本中にちらばっていった。だから四川料理は血統がはっきりしてて、全てが建民さんに繋がってるんよね。他の北京や上海料理ではそうはいかない。

――尹さんの四川料理は辛くないですね。

今は激辛がめずらしくなくなったけど最初、建民さんが日本に来た頃は、中国の調味料もないし、うどんはあっても麺はないしで全部日本の調味料で工夫しながら代用したり、麺なんかは担々麺も手打ちで、細めんを作ってたわけよ。だから一日に20食ぐらいしか出せなかったな。そんときの料理は激辛ではなかったんだよ。唐辛子にしても四川省の唐辛子は日本の何倍も辛いからね。だから少なくとも日本における四川料理=激辛てのは、俺は間違いだと思ってるんだ。
日本では四川料理は辛いだけの料理と思われがちだけど、ほんとは中国料理のなかでも中国各地の料理がミックスされた料理だと言われているんだよね。四川というところは、揚子江の上流にあって塩や砂糖の産地で日本全体よりも広い上に、天府の国といわれるくらいに物資の豊かなところなんだよね。そこに、中国各地からお金持ちが女中さんやらコックつれてやってきた。だから、中国のあらゆる料理のいいところを取り入れて、四川独特の味付けで発展してきた料理なんだよ。四川料理は一名宮廷料理ともいわれてて、土地が豊かで、金持ちも多くて、しかも昔は一夫多妻だったから、金持ちの男は元気の出るものをたくさん食べなければならなかった。だから長生きできるように、「医食同源」という考え方も生まれた。師匠の建民さんは、それにさらに日本のいいとこを取り入れてオリジナルの料理を作った。
俺もそれにならって、今の時代に美味しいとされる味を求めてレシピを工夫していると言うわけ。辛いのが苦手な人にも四川料理の素晴らしさを分かってもらいたいと思ってさ。

――料理で一番大切なことはなんだと想います?

もちろん、素材もあるけれど、俺が大事にしているのは、味のバランス。安くても旨い。高級ホテルにも負けない味を、みんなが喜んでくれる味を手軽に愉しんでもらえたら嬉しいな。

――これからの目標はありますか?

担々麺の専門店を出したいね。できれば俺の味を気に入ってくれて、夫婦でお店をしたいとか言う人が出てきてくれたら嬉しいのだけど。

――そうなることを愉しみにしてます。


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